こちらに移転しました。
歴史資料館の前の道は細いですが両側には趣のある建物がいっぱい。
と思ってると、資料館の真向かいに
本陣跡を発見。「皇女の霊柩」ではこのあたりで浅見光彦のソアラがオカマを掘られたことになっています。
さて資料館自体は有料ということもあって見応えある展示。長州や西国諸藩が幕末に行き来した場所でもあります。大河ドラマ「八重の桜」では敵方になっている長州藩ですが、日本の改革のためにいろいろと奔走したあとがうかがえます。
資料館の外は脇本陣。
中がこのように公開されています。
さて中津川をあとにし車を峠に向けて10分ほど走らせ、中央道神坂PAをくぐってさらに登って行くと、
馬籠宿に着きます。
このように胸突き八丁の上り坂が馬籠宿の特徴。宿場の中は車の通行禁止で、車はわきに並行して走る幅の狭い道路をだらだらと登っていくことになります。
ここは夜が早い。私が着いたのは夕方5時前ごろでしたが、店はほとんど閉まってしまっており、夕食を食べに行くのに神坂PAまで下りていかなければならないほどでした。
坂の途中を左に折れ、坂を下りきった沢を渡ると
永昌寺という寺へ出ます。ここには文豪・島崎藤村の墓があります。
私は藤村は読んだことないので何がすごいのかよくわかりませんでしたが、「夜明け前」ぐらい読んでくるべきでした。
夜はこのように風情のある町並みになります。なお馬籠宿は本陣の場所はよくわかりませんでしたが、脇本陣は立派な資料館になっていました。
さて馬籠といえばお隣の「妻籠」(「まごめ」に対してこちらは「つまご」と読みます。そのことは現地の標識のローマ字を見て初めて知ったんですが)も忘れてはなりません。馬籠は岐阜県、妻籠は長野県になります。
妻籠は馬籠から峠を越えてきた中山道が、木曾谷に下りきったところにある山峡の宿場である。現在は木曾川に沿って国道一九号線が通っているので、妻籠を通る中山道は枝道になってしまったが、街道の往復が華やかなりし時代は、木曾谷へ下りきった最初の宿場町として栄えた。
(中略)
馬籠もそうだが、宿場町の中は車の通行は禁止されている。川べりの大きな駐車場に車を置いて、宿場の中に入って行く。観光バスも何台か停まっていた。
馬籠が胸突き八丁の坂道であるのに対して、妻籠はゆるやかな登り下りがダラダラと続く。馬籠が観光に供することを意識して、各家の造りや道路を整備したのに較べると、妻籠では、建物の改造はともかく、道路の簡易舗装など、素朴な部分が目立つ。なんとなく埃っぽく、馬小屋の臭いが漂ってきそうな佇まいだが、それだけに宿場町のイメージはかなり忠実に残されているといっていい。 (内田康夫「皇女の霊柩」)
まさしくその通りの風情でした。
こちらが本陣跡。有料で整備されています。
脇本陣。
高札場跡。昔の宿場にはこうしてお上からの御触書が出されていたんですね。
さて今度はいつも通る土山。こちらは東海道の土山宿があったところです。
こちらは車の通行もOKだし、馬籠・妻籠ほど気合を入れた観光地化はされておらず普通の住宅街といった趣ですが、それでも
このような「東海道伝馬館」という施設を設けて宿場町の歴史を伝えようとしています。
土山宿にももちろん本陣はありました。
脇本陣の跡は見当たりませんでした。
高札場はこのように跡だけしか残っていませんでした。
このように宿場にはそれぞれ歴史が残っているようで、全国各地の宿場のこのような施設やその跡を回ってみるのも面白いな〜と思えてきました。そのうち「宿場マニア」になったりして。
コメントをどうぞ