実家にもPCはあるものの ページの更新とか
一部のサイト管理などは 帰省中にはできないっす。
帰省中にできること:
・DIARYの更新
・掲示板へのカキコ
・チャットへの参加
てことで しばらくの間 留守にします。
GUIベースのブラウザが普及したおかげで,日本のインターネットも,これまでの大学---研究所間ネットワークから一般のメディアへと大きく変貌を遂げて行ったんだけど,それにつれてネットの利用法もこれまでとは大きく変わってきたようだ。その中でも一番大きな変化は,
が当たり前になってきたことだろうね。
特に日本人は,昔から自分の名前を公にすることをはばかる傾向があるようで,雑誌の投稿にしても,ニックネームとかペンネームですることが多い。パソコン通信では,昔からハンドルネームを使って情報のやりとりをしていた。
その流れで,今まで実名主義が当然だったインターネットの世界にも,ハンドルネーム主義が浸透しはじめ,今では,
ネットが支配されてしまった。そればかりか,メールアドレスにしても,公開用と本物とを分けて使うのが当たり前になった。ちまたでは,プロキシの使い方や匿名メールの送り方なんかの解説でいっぱいで,いかに身元を隠すかということに躍起になっているようだ。
ネットやってる人って,そんなに自分の発言に責任もてないわけ?とも思ったりするし,別に本名を知られたところで,何されるってわけでもないと思うんだけどね。ストーカー行為をされる,とかにしたって,「じゃ実社会ではどうなの?」というぐらい確率は高いもんじゃないし。それに,コンピュータにちょっと詳しい人なら分かると思うけど,プロキシ通そうが何しようが
なのだ。プロキシ通したところでログはちゃんと残ってるし,そのログを追っていけば相手なんて簡単に特定できるわけだ。自分で追い込みかけるスキルがなければ
に委託すればいい。匿名性を妄信して良からぬことなどする輩は,ネットの藻屑と消えることになる。
アメリカでは,女性でも平気で本名を公開しているし,ちょっと仲良くなれば住所や電話番号さえ簡単に教えてくれる。プライバシーに関しては日本より遥かにシビアであるはずのアメリカで何故?と思うんだけど,やっぱりアメリカなんかではネット社会が成熟していて,女性がプライバシーを公開したって何も悪戯されたりしない土壌になってるんだろうね。仮に悪戯されても,向こうの人は自分がしっかりしてるから,毅然とやり返せるんだろうしね。
翻って日本じゃ,まだまだネット社会がコドモな部分が多く,女性の名前を見ただけで変なことしたくなる妄想君が多かったりする。特にコンピュータにはまってるヲタクちゃんの中には常識外れの行動に出る輩も多いから,相変わらず掲示板荒らしやメールボムみたいな幼稚なイタズラをして喜ぶ頭の悪い厨房君とか,ネットで流通してるハックツールを使って嬉々としているお猿さんも多いしね・・・そんな害吉君どもが跋扈してる日本ネット社会の中では,個人特定される手がかりはなるだけ出すのを控えたほうがいいのかもしれないね。
かくいう僕自身は,学術ネット出身者だったので,以前は堂々と本名と所属を公開していたんだけど,5年前と比べて全く変質してしまった今の渾沌かつ殺伐としたネット社会にあってそんなことしていると何されるかわからんので,匿名主義に切り替えた。
普段,公開用にHNや転送メールアドレスを使っておいて,気に入った人には
本名を教えてあげる,本当のメールアドレスを教えてあげる,と言うことにすれば,誰だって特別扱いされて悪い気はしないだろうからね(笑)。
ということで,僕に本名を教えられた女性の方,御用心を(笑)
僕は普通の人よりちょっと長かった学生生活を終え,こないだ社会人になったばかりなんだけど,学生と社会人,何が違うのか考えてみた。まあ,うちの職場は私服OKだし,見た目だけはほとんど学生みたいなものなんだけど,しいて違いをあげるなら,
特に日本社会では,「金を稼ぐ者が偉い」という風潮が強いせいか,経済力のない大学生は社会人と比べて一段低く見られるみたいで,車のローンは親の保証がないと組めないわ,クレジットカードは学生用の限度額の低いやつしか作れないわ,何かにつけて社会人から
などと言われるわで,悲惨な状況にある。同じ年齢でも,大学院の研究室で論文を書いている学生よりも,高校を出てさっさと働いている人のほうが社会的な信用が高いとされている。外国では,院生には給料を支払うところもあると聞くが,日本の学生は無給(いや,授業料を払わなきゃいけないから,マイナスだ)で,サラリーマンと同じか,またはもっと忙しい仕事をやらされている。院生だと,バイトする時間もあんまりないので,いきおい
を余儀無くされる。いちおう研究室でバイトは紹介してくれたりもするけど,専門学校の講師か,家庭教師ぐらいしかなく,口下手な僕にはとても勤まらない仕事だ。それすらも枠が限られてて,院生の数が増えるとその枠を分け合う形となり,その分1人あたりの収入が少なくなる。その他のバイトをしようと思うと土日にするしかないので,自由時間も少なくなるし,そんなに働く時間もとれないから必然的に身入りは少なくなる。それでいて研究室の飲み会とかイベントとかはいっちょまえにあるし・・・僕はたいてい2次会は失礼してさっさと帰っていたのだが,毎回そういうわけにもいかないので,何回かに1回は付き合うこととなり,そうすると終電近くに帰ることになる。最寄り駅から僕の家までは徒歩30分もあるので,普段はバスを利用して帰るのだが,もちろんそんな時間にバスなどあるわけはない。べろべろに酔っ払った身で30分歩くのも危険なので,どうしても
余計な金が飛んでしまう。
奨学金を受ければ,生活は楽になるんだろうけど,奨学金はあとで返さなきゃいけないし,枠が限られているので,相対評価で成績が良くないと受けられない。大学の教員になれば,奨学金を返さなくてもすむのだが,そんなラッキーな人間はそうそうお目にかかれない。
そうやって無理して研究してPh.Dなんか取ったって,日本の会社じゃ博士号なんてただの称号で,給料が良くなるわけでもなし,大学に残って助手になんかなったら,超安月給で,それこそバイトしながらやってかなきゃならない。
#ホントは国立大学の教員がバイトするのは違法なんだけどね・・・まあ法を侵さなきゃ生活もできないってことよ;
研究が好きでやるぶんにはいいんだろうけど,あまりに割に合わないと思ったので,僕は研究はやめてさっさと就職してしまった。いや,2年,人より出遅れてしまったと言ったほうがいい。
今の,学生を軽んじる日本社会の状況では,大学院に進むより,学部を出たら就職したほうがいいと思う。そのほうがよっぽど経済的にも楽だし,会社じゃ院卒よりも先輩になれるし,何より社会的な信用度が違う。そう思って大学院の研究を断念した人も少なくないだろう。その中に,貴重な才能が含まれていたとしたら・・・日本は,大事な人材を失ってしまったことになる。特に基礎研究分野で弱いと言われているのに・・・
成人して大学院で研究を続けている人は,社会人と同じ責任を持っていると思うし,そういう人に対しては,会社員なみの地位と待遇があってしかるべきだね。彼らは,確かに自分のために進学して研究しているんだけど,教授なり指導教官から与えられる研究テーマは,社会的にも要求されている内容なわけだし,学生はちゃんとノルマも課せられて毎日夜遅くまで頑張って仕事しているのだ。
より彼らが劣る理由などない。院生から授業料を取るなんてもってのほか。むしろ,給料を払うべきだ。国のために有益な人材を育てるための税金なら,喜んで払うよ。
もし,日本社会が大学生に対して無理解の状態がこれ以上続くんだったら,僕に子供ができても,子供を大学院には行かせたくないね。今の状態では,大学院は「無駄な2年間」でしかないというのが僕の感想だ。むしろ,高卒で就職させたほうが,よっぽど社会人としては早く大人になれるだろう。もし,どうしても何かの研究がしたくて院に行きたいと言い出したら,アメリカの院に行かせるつもりだ。
僕は国籍の上では日本人だし,海外旅行もしたことがない人なんだけど,特にITの世界に身を置いていると,どうしてもアメリカ文化の洗礼を受けてしまう。まあ,純粋な「日本」なんてものは1945年に原爆と一緒に吹っ飛んでしまって,それ以後の日本なんてほとんどアメリカの租借地みたいなもんだけど;別にこの傾向は日本ばかりでないみたいで,ドイツでも若い人はアメリカのロックを聴くらしいし,世界中にマクドナルドは氾濫してるし,あのフランスでさえも英語教育に真剣に取り組みはじめたらしい。
アメリカ英語が世界のデファクト・スタンダードになっている現状は否定しようがないし,アメリカが発明したインターネットの普及なども考えると,だんだんアメリカ文化が世界標準になっていくんだろうと思うね。けど,それは別にアメリカが文化的に他国を侵略したわけじゃなくって,
ってことなんじゃないのかな。個人の自由が最大限保証されていて,外圧(伝統ある村社会の束縛)に干渉されることなく個々人が自分の力で生活するっていうスタンスが,世界的に受け入れられていう証だと思うね。
けど,僕はアメリカやアメリカ文化は今でも好きなんだけど,アメリカ人は大嫌いなんだよね。ていうか,あることがきっかけとなって嫌いになってしまったんだよね。
上京してから毎朝通勤に西武池袋線と埼京線を使っているんだけど,ある朝,埼京線の池袋駅のホームに上がると,明らかに観光半分で日本に来たとみられる中年のアメリカ人15人ぐらいの一団が,何やら指を差してゲラゲラ笑っている。何だろうと思って指を差しているほうを見ると,相変わらずの殺人ラッシュで
ほどになっていて,駅員さんが閉まり切らないドアに駆け寄って乗客を押し込んだりしていた。僕らにしてみればごく当たり前の朝の光景なんだけど,奴らにしてみたらコメディ映画でも見てるような気分だったのか,無遠慮に笑いまくっていてすっげえ感じ悪い。笑うだけならまだしも,
輩までいて,僕はそいつのカメラをひったくってホームの下に投げつけてやりたい衝動にかられた。馬鹿にすんじゃねェ!まあ,奴等が日本政府に外圧をかけて,僕らの生活をもっと改善してくれるんなら文句はないけど・・・ただ見世物みたいに見て笑いものにするだけだったら,日本に来るな!GO HOME!だね。
僕はそれまでどちらかというと英語マニアで,車の中でENGLISH JOURNALのカセットテープとかよく聞いてたし,紀伊国屋書店とかに行っては洋書を買いあさったり,短波ラジオを買ってきてはVOAとかBBCとか聴いたり,上京してからはラジオでInterFMやらAFNやらを聴いたりして,英語はかなり本格的に勉強していたのだが,こんな奴等に合わせてやるために今まで英語を勉強してきたのか・・・と悔しさで一杯になった。この一件以来,僕は,アメリカや英語への興味を失ったね。
東京の街を歩いてても,外国人(特にアメリカ人だ)は自分の国みたいに我が物顔でのし歩いている。特に日本は今不況なので,それに乗じて日本人を下に見ているようだ。奴らはもちろん日本人社会に溶け込もうとはしないし,その必要性もないと思っている。ましてや,日本語を話そうなどとは夢にも考えようとしない。日本人と接するといえば,
ぐらいのもので,もちろんそのときも,英語しか使わない。 高校時代,地元の市の姉妹都市からアメリカ人の女の子が2週間ほど交換留学生として来たんだけど,彼女は日本のホストファミリーに開口一番,
ホストファミリーも英語を使うべきだし,自分に話しかける時は英語を使いなさいなんてことをほざきやがったそうだ。そういう奴は,英語以外の言葉なんてまるで興味ないばかりか,
受け入れられないのかもしれない。事実,奴らの国の映画では,清の皇帝もダースベイダーもみんな英語を喋っている。
もちろん,アメリカ人がすべてそういう奴らばかりではないし,もっと素晴らしいアメリカ人もたくさん知っている。ただ,親や教師に反抗する子供や生徒と同じように,上から見下ろしたような物の言い方をされるのは我慢ならないと感じるのだ。まあ,だけど,社会システムというか,制度面では,
だと信じている。アメリカが今空前の好況に沸き,あらゆる面で成功を収めているのが何よりの証拠だ。残念だが,
悔しいけど,それは認めざるを得ないと思う。
今の腐り切った日本社会を根本的に変え,今のアメリカのsuccessfulな状況に近付けることが,日本復興の大きな鍵となるだろう。こう言うと,アメリカにかぶれた犬のように思われるかもしれないが,僕はそこらの日本人よりはずっと愛国者だと思っているし,日本を愛していればこそ,今の日本のていたらくが歯がゆくて仕方ないのだ。アメリカのものをすべて真似るのもいかがなものかとは思うが,理にかなったものはどんどん取り入れる価値があると思う。日本は1500年以上も,そうやって大きくなってきたのだから。
僕がまだ地元の大学院生だった頃,研究の用事で東京に出張することがあったんだけど,帰りに東京駅で中央線から新幹線に乗り換えようと連絡通路を歩いていると,明らかに精神が錯乱状態の若い女性が通路に座り込んで,道行く人々に向かって「見るなよ!見るなって言ってんだろ!見るな!」と延々怒鳴り付けていたことがあった。あまりのショッキングな光景に度胆を抜かれた僕は,「ああ・・・東京みたいな閉塞した大都会に住んどったら,ストレスで窒息して神経おかしなんのかなあ・・・」などと思ったものだ。
少し前,ドクター・キリコ事件というのがあった。「ドクター・キリコ」とは,手塚治虫先生の名作漫画「ブラック・ジャック」に出てくる,自殺志願者や治癒の見込みのない患者への安楽死を専門に請け負うモグリ医者の名前で,自分をその医者に見立てて自殺志願者に毒薬を宅配するWebサイトを開いていた男がいた。ドクター・キリコ事件とは,その男が,鬱状態で死を考えていた東京・杉並区の女性に青酸カリを郵送してその女性を自殺させ,そのあと自分も自殺したという事件のことだ。
最近,心を病んで自殺を図ったり,そこまで極端ではなくとも,パニック障害,過換気症候群(いわゆる過呼吸ね),鬱病などの精神的なトラブルを抱えるようになった人が最近とみに増えていて,精神医学ものの漫画やTVドラマなんかも飛び出したりして,「こころの問題」が,近年ますます話題になりつつあるようだ。
確かに,現代人は精神的に弱くなったのかもしれないし,戦争に行って血みどろの極限状態で仲間が次々に死んで行くのを見てきた世代の人たちにしてみれば,「何を甘えたことを」と思われるかもしれないし,「今の人は精神修養が足りない」と言われても仕方ないかもしれない。けど,血もろくに見る機会もない平和な時代に生まれ育った現代人が,精神的ショックに対する耐性が少ないのは仕方ないことだ。
僕は阪神大震災を経験したこともあって,震災後半年ぐらいに被災者を襲うPTSDにとても関心があった。PTSDで苦しむ若い女性の新聞記事などを読むと,俺が今すぐそばに行って支えてあげたい,なんて思ったものだけど,よく考えると
わけで,相手を余計に傷つける結果になりかねないんだよね。PTSDは病気なんだから,専門の医者にかからなきゃ治るわけないのだ。
僕はどっちかというと感情のムラがわりと多いほうで,ハイなときとブルーなときとの差が激しいほうなんだけど,幸いなことに,今までのところ何も精神的なトラブルは起こっていない。でも,30歳をすぎて精神分裂病を発症する人もいるそうだし,これから先ずっと健康でいられる保証などないわけで,まして東京のようなstressfulな大都会に一人で暮らしていれば,なおさらだ。これから仕事も忙しくなり,ストレスも今以上に過大にのしかかるだろうということを考えると,体がボロボロにならないために,ちゃんとしたメンタル・ヘルス・ケアが必要だなと感じている。
日本でも最近は心療内科が市民権を得てきて,普通の人でも通えるようになってきてはいるんだけど,まだまだアメリカのように一般の人が気軽に安価にカウンセリング等を受けられる環境は整っていない。アメリカでは,健康でもかかりつけのセラピストがいる人が多く,ちょっと何かあると気軽に相談に行ったりできるそうだ。今の日本の心療内科はまだまだ,病気になってから治療のために通うという色彩が強くて,そんなとこに通ってるとまだまだ偏見の目で見られやすいんだけど,いったん病気になってしまったら治すのが難しいわけなんだから,病気にかかる前の予防保全的な役割を果たせるような機関を充実させないといけないと思うね。
あと,アメリカでは,積極的な性格にならないと人生で成功しないというので,もともとおとなしい性格の人は,プロザック等のいわゆる向精神薬を服用したりしているそうだ。日本人はまだまだ向精神薬に対する抵抗が強いが,プロザックがあれば大部分の日本人の性格が明るくなり,社交的になるだろう。鬱病治療にも効果をあげているそうだし,健康な人にとってもメリットになることが多いはずだ。何故,プロザックを日本で解禁しないのか,不思議で仕方がない。プロザックに限らず,いわゆるlife creation drugの類は,ストレスの多い現代社会に生きる人間ならもっともっと活用しなきゃ損だ。
こころの健康管理も,他の普通の健康管理と同じように考えないと,これからの社会,とても生きてはいけないと思うよ。これ以上,
たまんないからね;
毎日,朝になると満員電車にゆられて会社に行き,仕事をして,夜になると帰宅する。昨日と同じように,今日も,また明日も,同じことが繰り返される。僕たちにとってみれば,そんなことはごく当たり前すぎることであって,普段は「今日も自分は生きているんだ」などといちいち意識してるほど暇じゃないし,ましてや「今日,ひょっとしたら自分は死ぬかもしれないんじゃ・・・」なんてこといちいち考えたりしない。
けど,突然命を落とす可能性は誰にでもあるわけで,特に現代は,健康であっても,まだ若くても,事故や事件に巻き込まれていきなり人生の最期の日を迎えることも十分起こりうる世の中なんだよね。
4人が犠牲となった3月8日の中目黒での脱線衝突事故を聞いて,ふとそんなことを思った。この事故で亡くなった人たちは,朝いつもと変わらずに普段通りに起きて朝食を摂って身支度を整えて家を出て電車に乗って,電車の中で新聞や文庫本を読んだり,寝ていたりしていたんだろう。まさかその日に人生の最期を迎えようとは夢にも思わなかったに違いない。否,事故に遭ったその瞬間にさえも,自分の身に何が降りかかったか十分呑み込めないまま,確かめるすべも持たずこの世を去っていったんだろう。朝,変わらず元気な姿で家を出たのに,夜には変わり果てた姿になって無言の帰宅をしたわが子,わが妻を目の当たりにした遺族の心痛,いかばかり。
99年9月の池袋通り魔殺人事件にしても同じことが言えるわけで,普通に歩いていたのに,いきなり降ってわいたような災難に巻き込まれ,ホントに突然,人生を強制終了させられたわけだ。
特にこれらの事故・事件は僕の生活圏内で起こったことだけに,一歩間違えれば僕自身が巻き込まれる可能性があったわけで,決して他人事とは思えない。特に同じ年代の方が犠牲になるのを見ると,胸がつぶれる思いだ。亡くなった方々には言葉もない。
こんなこと言ってる僕だって,何度もすんでのところで命拾いしている。阪神大震災のときには,寝る位置があと50cmずれていたら,間違いなくタンスで頭をつぶされていただろう。学生のころ,地元のホテルでバイトしていたんだけど,そこで地元の暴力団の某若頭がチャカで撃たれ,その若頭は即死,隣のテーブルに座ってた歯科医が巻き添えを食って亡くなるという事件があった。幸いその日にはバイトが入っていなかったんだけど,もしバイト中に事件が起こってたらと思うと,今でもぞっとするね。
特に大都会は,常にいろいろな危険と隣り合わせだ。夜の盛り場はもちろんのこと,車を運転中でも,電車や飛行機の中でも,学校や会社の中でも,病院の中でも,どこにいても,生命を失う可能性は常にひそんでいる。それは交通事故であったり爆弾テロであったり毒ガステロであったり通り魔であったり,はたまた
高速道路を走っていて前から鉄板が飛び込んできたり
することもあったりする。
じゃ家の中に閉じこもっていれば絶対安全かといえば,阪神大震災の例をひくまでもなく,突然一発大地震が来て
ある。隣の家が火事を出して逃げ遅れて煙を吸っちゃうことだってあるかもしれない。現代人にとって,もはや絶対安全な場所はないといっていい。
そういうわけで,今の世の中,
と言っていい。生きている限りいつか死ぬのは当たり前なんだけど,それがいつなのかは予測することができないわけで,今日死ぬかもしれないし,明日かもしれないし,50年後なのかもしれない。
では僕たちはいったいどうすればいいのか。死を恐れながら毎日びくびくして暮らさなければならないのか。
僕の考えたソリューションは,
人の生死を決められるのは自分自身でなく,神仏や,あるいは人を超えた力の巡り合わせであると自覚すること。同じ事故や災害に遭っても,命を落とす人もいれば,間一髪助かる人もいるわけで,その差は,ほんとに紙一重である。今回の中目黒の事故にしても,たまたま被害に遭ってしまった人もいれば,この日に限って乗車位置をたまたまいつもと別のところにしたために助かったという人もいる。そして,その運命は,自分自身で制御できない。いくら気をつけていても,助かるときは助かるし,ダメなときはダメなのである。潔く運命を受け容れることである。
今日できることを明日まで延ばさないこと。明日はないかもしれないのだから。楽しいことは後にとっておかないで,すぐにやってしまったほうがよい。将来に向けて備えることも大切だが,今を楽しむということも忘れないようにしたい。そして,いつ命がなくなっても悔いのないように,1日1日を精一杯生きること。
さて僕自身はどうかというと,正直なところ,1日1日やり残しの連続だし,ノホホンと毎日過ごしてるので,とても精一杯生きているとはいえない(苦笑)。うーん,まだまだ死にきれそうもないようだ;